記憶の片隅より愛をこめて
2011年9月18日 15:14 | ひとりごと | Tag:非日常
9月も後半だというのに連日の30度超えの日々。
しかもそれが若干普通になりつつある昨今。
冷静に考えよう。
地球エラいことになってないか?
始めようエコ。
守ろう地球。
暑し!!
先日、ひょんなことから自分の生まれ育った土地を散策する機会があった。まあヤボ用ついでに、ちょいと足をのばしてみるかと、軽い気持ちで訪れただけなのだが。
20数年前のあの頃、何も考えずにかけずり回ったあの道を、公園や野山を、かつての自分の影を追うように原付でぐるっと一周してみたわけである。
まあ何というか、懐かしいやら淋しいやら、不思議な気分になるひとときであった。
何年間も通い続けた道、あの曲がり角が、そしてあの橋が、記憶の断片にあるそのままで残っていたり。
逆に、歩くことそれ自体がサバイバルだったあの道が、舗装された広い一本道に変貌を遂げていたり。
地域の子どもたちの溜まり場となっていた駄菓子屋が、当時と変わらぬたたずまいで存在していたり。
あんなに広大で重厚に思えたあの公園が、実はこんなに狭くてこじんまりしていたのかと気づいたり。
あの子が転校して空き家になったあの家は、今はまったく別の建物に変わっていたり。
何はともあれ、たまにはいいものである。
まだ人生を振り返る歳でもないのだが。
ところで。
ふとしたことで、絡まっていた糸がほどけて当時の記憶がつながるという体験。これはわりとよくあることではないだろうか。
思い出してしまったのだ。
生まれ育った土地を巡るうちに。
忌まわしいあの記憶を。
当時、あり得ないほど恐れられていた先生が僕たちの小学校にいたことを。
教科は図工。
いわゆる「図画工作」。
中学校に上がると「美術」とか「技術」という呼び名に変わるアレである。
何が恐いって、その威圧感が半端じゃないのである。
別に身体が大きいわけではない。
力が特別強いわけでもない。
児童に暴行を加えるわけでもない。
だけど。
なんでか知らないけど。
常に怒っている。
いや、ホントなんでなんでしょ。
今考えてもまったくわからない。
絵の具を一色でも切らしたらブチッ。
説明を一度で理解できないとブチッ。
私語でブチッ。
忘れ物をしようものなら授業開始10分で廊下行き。
そしてその日は終了である。
ある時、絵の具の色を復唱しろという指令がくだった。
そこで我々はその指令を忠実に遂行していたのだが、
「赤、青、緑、黒、黄色、紫……」
「ちが〜う!!
黄色じゃない!!
黄だ!「キ」と言え!!」
「…はい、……え?」
え?
またある時は、人物模写の課題に際して、
「髪の毛を一本一本すべて描け
そして、
血管もすべて描け。すべてだ」
もうむちゃくちゃである。
髪の毛なんぞを全部描いていたら、それだけで一年間終わってしまう。
理不尽大王というか、僕たちはヤツの発火ボタンを押さないようにのみ、神経を集中して授業を受けなけばならなかった。
週一回ある図工の授業が近づくにつれ、学年単位でテンションが下がっていく光景はそこそこ壮絶なものがあったのではないかと思う。
隣のクラスの友達に「ヤツ機嫌どうだった?」と前情報を収集する小学生。不憫にも程がある。
少しでも授業開始を遠ざけようという心理からか、前の日はみんなの帰宅が気持ち遅くなる傾向が顕著に見られた。まったく意味はないのだが、小学生の浅はかな現実逃避だったのだろう。
よくわからんが、ゲージュツというもんはこんなビクビクした精神状態の中から生まれるものなのだろうか。とてもそうは思えないのは僕だけだろうか。
そして、小学生相手にあそこまで無遠慮にキレる必要性があったのだろうか。
ぶっちゃけ、「黄色」を「キ」と言おうが「キイロ」と言おうが、今のところ僕の人生にはまったく影響がない。
そして、身体中の血管を一本ずつすべて描く努力をしたところで、人間のスケールが段違いにデカくなったとも思えない。
いや、そんなことはない。
人生に無駄なことなど、一つもないのだから。
そうだ。
そうに決まってる!!
そう、なのか?
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